下乳ケモっ娘タビタが可愛いと思ったら、書店へGO!
■随分久しぶりですね
昨年中は大変お世話になりました、あけましておめでとうございます、ハッピーバレンタイン
時候の挨拶は全部やっとけばきっと大丈夫、どうも私です
ブログは好きな時に書いて好きな時に止めればいいというスタンスなのでこれでいいんです、はい
■子どもの頃、読書感想文は嫌で仕方なかったです
夏休みの宿題の敵でしたね、えぇ
中学に上がって本の虫になるまで、読書感想文は大嫌いでした
中学一年の時は読んでも居ないハリーポッターで適当なことを書いた気がします
十数年経って弟の読書感想文代行を親に頼まれた時、喜び勇んでハリーがどれだけ恵まれた家系に生まれたのか、やっぱり世の中金だよね、みたいなことを楽しく書いたら却下されたのはなんでだったんでしょう
それはさておき、読書感想文
紛いなりにも同人小説というものを嗜む程度に書いている私が今、本気で学校に出しても怒られ無さそうな読書感想文を書いたらどうなるか
そういう挑戦的なものを書いてみました
なんでか知らないですが、小学校でみんな謎の読書感想文メソッド教わりませんでした?
一枚目で自分と本のエピソードを書いて、二枚目はあらすじ、三枚目と四枚目で良かったところとか共感したところとかを書いて、最後一枚でこれからの生活にどう活かすか、みたいな構成
今回はそれを意識してます、夏休みの宿題に出してもいいものを意識したつもりです
それでは、前置き長くなりましたが以下、榊一郎先生のファンタジア文庫新作「誰が為にケモノは生きたいといった」の感想文です(原稿用紙5枚構成)
※一応ネタバレはあまりないようにしてますが、過敏な人はご注意を
棄てられた世界で生きる者、理由を探す者
死にたいと思ったことが、一度だけある。親の仕事の都合で転校生だった僕は転校先の学校で思うようにクラスに馴染めなかった。いじめにあったとか、嫌がらせを受けたとか、具体的な被害は無かったと思う。しかし、知らない環境で自分について回る疎外感と、それにどう立ち向かえばよいのかわからない心細さがたまらなく嫌だった。学校に行きたくないと、行くくらいなら死んでしまいたいと思ったし、母に告げたような気がする。
結果として二十年以上経った今もこうして図々しく生きているし、あれ以来死にたいと思ったことはない。だが、同時に生きたいと強く思ったことはあっただろうか。あるいは、車に撥ねられたりすればそう思うのだろうか。それは単に「死にたくない」であって、「死にたくない」と「生きたい」は同義なのか。そんなことを考えている以上、無意識のうちに僕は「生きる」理由をどこかで作りながら日々生きているのだろう。
「誰が為にケモノは生きたいといった」は、まさにこの「生きる理由」がテーマとなった作品である。
罪人として
これだけの登場人物が、それぞれの「生きる理由」を抱いてこの棄界で生きている。復讐のため地位や家柄を捨ててでも生きる者、明日のことや未来のこと、他者のことなど顧みず、ただ今日の己の欲望のため生きる者、生きる理由を他者へ委ねるため奴隷であることに拘り続ける者。フィクションの世界であってもここまで全面的に描かれることのない「生きる理由」がテーマとなっているのがこの「誰が為にケモノは生きたいといった」という作品だ。
この作品の感想をまとめる上で最初に語るべきこと、それはやはりタビタが可愛いということだ。もちろん、下乳が目を引く表紙絵やイオリの顔に下着をつけていないままの股間を当てつつイオリのアレを舐める挿絵のような視覚的な可愛さもある。しかし、それ以外の、例えば地竜という脅威よりも食に対し素直なところだったり、笑顔を見られてしまったことに対して急に恥ずかしくなる仕草だったり、かと思えばいざ戦闘になればピリッと張りつめたようになったりと、顔に出ないながらコロコロと変化する心情が、非常に見ていて可愛らしい。小動物を見ているような、そんな愛くるしさがあるのだ。ちょっと舌っ足らずな喋り口調は、同氏の「
また、この作品を読む時は次々変わっていくカメラ位置にも注目してほしい。三人称視点で進行する作品の場合、主人公の背後にカメラが回ることが多い。本作も基本的には主人公であるイオリの背後にカメラが回っていることが多いし、イオリの心理描写が占める割合が多いのは確かだ。しかし、時にはアダムの背後にカメラが回りイオリと対峙していたり、ユーフェミア目線でタビタとエステルの戦闘が繰り広げられていたりと、とにかく場面ごとにカメラがあちこちに飛ぶ。これが氏の言うところの「変則的な展開」なのかはわからないが、僕はこの展開の仕方こそがテーマである「生きる理由」を最も分かりやすく読者に伝えるための手法なのではないかと思った。それは、登場人物たちの「生きる理由」を最も捉えられるのが、第三者を通してその人物を見ている時だったからである。
はじめに書いた通り、生きる理由なんて自分で考えてもよくわからない。だから、いくら心理描写を並べたところで伝わりきらない。それよりも、その人物の言葉や行動にこそ「生きる理由」は現れるのであって、それを一番分かりやすく表すのが、第三者の視点を通すという手法だったのではないだろうか。正誤はわからないが、少なくともこれを素人が迂闊に真似するとただ視点がブレているだけの駄作に成り下がる。そのあたりは、さすが作家生活二〇年を迎えた榊一郎の成せる技と言ったところだ。テクニック的な意味合いが強いが、そのあたりにも注目して頂きたい。
生きる理由が呪いのように巻き付いていたイオリと、生きる理由そのものが不確定だったタビタ。物語の最後、二人はそれぞれ新たな生きる理由を得ることになる。それがなんなのかは、是非最後まで読んで確かめて欲しい。さしあたり、僕も彼らの旅路を見届けることを生きる理由として、行きたくもない会社と家の往復を、明日からも続けようと思う。