ゆたんぽを抱いて寝る。

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猫のこと、本のこと、アニメのこと、野球のことetc...思いついたまま、気の向くままに。

ゆたんぽを抱いて寝る。

信じようが信じまいが

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クソリプおじさんの文章力がたまに羨ましくなる

 

クソリプ防止機能の話

Twitterが実験的な試みとしてリプライできるユーザーを自分で選べるという機能をテストしている、という話がちょっと前に話題に上がりました。ネット上ではもっとわかりやすく「クソリプ防止機能」なんて例えで持ち上げられています。

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筆者は今まであまりクソリプを頂いた経験がないので貰う側の気持ちに関しては想像することしか出来ませんが、知らない人間からいきなり無礼千万なことを一方的に言われたい放題されるのは、確かに気持ちがいいものではないですよね。現在は、フォローしているアカウントに限るとか、自分で指定したユーザーに限るとか、そういう限定の仕方ができるみたいです。

ブロックでいいんじゃないの? というツッコミはありそうですが(というか筆者はそう思いました)、タレントさんや著名人になると、飛んでくるクソリプの数も10や20じゃきかなくなるんでしょう。それらをいちいちコチラからブロックする手間を考えたら、確かに良い機能のように思えますね。

あ、でも「批判されるのが嫌なら鍵垢にしてればいいじゃん」というのは違います。

クソリプを飛ばしてくる相手が1億%悪いのであって、そんな輩のためになぜコチラが配慮して鍵をかけなければならないのかと。それはまるでイジメを失くすために被害者の子が転校しちゃう、みたいなものです。

指摘されている通り、デマやパクツイへの指摘まで封殺されてしまう危険を含んでいることは間違いありません。でも、平和で住心地のいいインターネットを守るためには、こういう試みが必要なのかもしれませんね。まぁ、こんな措置が必要になっちゃうこと自体が非常に窮屈で仕方ないとは思いますが。

 

殺伐としてるのと荒廃してるのは違う

昔のネットは良かった。

そんなことを漏らしながら生きてるインターネット老人のLITさんです。昔――と言ってもほんの十数年くらい前。時代はISDNから次世代の高速通信回線ADSLへ移行していった、そんな時期。

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mixiがまだ招待制だった……くらいの頃の話ですね。あの頃のインターネットは、まだまだ一部の物好きだけが好んで使うニッチなサービスでした。利用者の殆どは、パソコン通信時代を生きてきた人、巨大匿名掲示板の黎明期を生き延びた人達です。そこには当たり前のようにマナーがあって、決まり事がありました。ネチケットなんて言葉も懐かしい単語になって久しいですね。

今でこそネチケット(笑)なんて揶揄されてますが、当時はネチケットのない人間は人間に非ず、みたいな雰囲気でした。嘘みたいな話ですが、マジです。半年ROMれっていうのは、あながち的外れじゃないんですよあれ。知らないスレッドにいきなり書き込むのは、本当にご法度な雰囲気がありました。というか、おいそれと書き込めるような雰囲気じゃありませんでした。だって、そこがどんな話題の場所でどんな人達が書き込んでいて、どんな会話が展開されているのか知らないわけで。それなのにいきなり自分の話をし始めるヤツなんて、どう考えてもイッちゃってるヤツ認定じゃないですか。それを測るのに半年――とまでは言わなくても、やっぱりしばらくスレッドの流れをROMりながら追う作業が必要でした。

画面の向こう側にいるのは確かに同じ人間だけど、顔も名前も性別も家族構成も一切わからない相手です。アホほど警戒して慎重すぎるくらい慎重になって当たり前なんですよね。文字だけのやりとりというのは、面と向かって知らない人と話すよりも何倍も難易度が高いことです。普通に書いたつもりが、相手を傷つけてしまった。そんなことがあったら大変です。だから、脳直で書き込むなんて出来るわけがなかった。それだけのことを当たり前のようにやっていて、しかもちゃんとコミュニケーションがとれている人達が、あの頃はたくさん居ました。

これはリアルでもネットでも同じことが言えますが、コミュニケーションって双方向だから成り立つものなんですよ。人の話も聞かず、あるいはただただ自分と違う意見を頭ごなしに否定しているだけではコミュニケーションって成り立たないんです。それが顔も名前も知らない相手と文字だけでやりとりするのなら尚更です。相手と対等に話をするためには、まず相手の話をよく聞き(よく読み)、相手に伝わるように話す(書く)必要があるんです。そしてそれができる人達が当時はたくさんいたし、それがインターネットを利用する人間の必須スキルだったように思います。

言葉は確かに乱暴だったかもしれません。でもそこには確かな秩序としっかりとしたコミュニケーションがあって。筆者が好きだったインターネットの世界ってそういうものだったんだと思います。

 

よく、昔のインターネットは今よりずっと怖いものだった、今は平和で住みやすいみたいな話を耳にしますがあれは誤解です。全員が顔も名前もわからない相手だという状況、その殺伐さは確かにあったと思います。確かに文字でのコミュニケーションというのはそういう怖さはありました。でも、自分の顔も名前も相手にバレないからと言って好き勝手誹謗中傷を言ってもいいなんて雰囲気は、どこにもなかったです。前述の通り、相手の話を聞く、その上で自分の意見を述べる、というのが当たり前だったわけです。人の話を聞かず自分のことばかり話している人の話は誰も聞いてくれません。危ないやつ認定されて総スルーでした。

そりゃあイタズラにブラクラを仕込んだりウィルスをばらまいたりする輩はいました。でも、明確に誰かに向かって悪意を向け続けたり、特定の誰かを言葉で攻撃し続ける連中が闊歩していたかと言われれば、そんなことはありませんでした(特定の誰かを攻撃し続ける人はたしかにいましたが、そういう人は周りも冷めた目で見てましたね)。

むしろ、そういうアテのない中傷の言葉は誰もがネットにアクセスできるようになった今のほうがずっと多く目につくようになったとすら、筆者は感じます。しかも、タチの悪いことにそれが正論だと、自分のやっていることは正義の行いだと思っている人は間違いなく今のほうが多いです。画面の向こう側にいるのも人間だと忘れて、あるいは初めからそういう意識がない人もいるのか、簡単に相手を言葉で攻撃してしまうんですよね。

そして、ここ数年目立ってきたと筆者が感じるのが「この人は悪いことをした人だからどんなに誹謗中傷されても仕方ない」という論調の人。そんなこと無いはずなんですけどね。どんな行いであれ、その人を誹謗中傷していい権利なんてあるはずないんです。ましてや、それが匿名だから許されるなんてことあるはずがないし、あってはいけないんです。

 

たしかに、昔に比べて今は息苦しいインターネットになったなと感じる事は多いです。えっちなコンテンツは年を追う毎に居場所がなくなっていってますしね。でも筆者が、そして多くのインターネット老人が住みづらいと感じているのはそういうところじゃないんです。

どこからともなく飛んでくるやもしれない、ロクに話を理解しようともしない正論気取りな責任のないクソリプが面倒で仕方ないんです。たとえその人がどんなことをしようと、言おうと、その人を言葉で傷つける権利は誰にもありゃしないんです。「これは誹謗中傷じゃない、立派な批判だ」とカッカしながら言ってる人ほど、ただただ相手の人格を言葉で攻撃してるだけなんですよねぇ。

 

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気をつけましょ、もちろん自分も含めて。

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