君に出会えて良かった 好きになって良かった
どれでも同じ5分
「今何してる?」
とある休日の昼下がりのこと。
地元の友人から、一通のメールが届いた。今どきLINEじゃなくメールなのは僕が頑なにLINEを使わないからなのだが、幸いほとんど困ったことはない。
件の彼とはかれこれ人生の半分近くをともに歩んでいる腐れ縁になるのだが、それにしても、「今何してる?」と来たもんだ。たった6文字。12バイトの情報。時候の挨拶なんてものは当然ないし、用件というほどの用件もない益体の無いメール。キャバ嬢にイタいLINEを送るオッサンを少しは見習ってほしい。とはいえ、顔文字と自分語り満載のメールが同世代の男友達から届いても、それはそれで対処に困るのだが。
「生きてる」
相手が6文字のメールを送ってくるなら、こちらも負けじと4文字の返信でそれに応える。相手がボケてきたら、如何に相手のボケにうまく乗っかるか。そんな下らなくて馬鹿らしい付き合いを十何年も続けられるのはひとえに波長が合うからなのか、あるいはお互いがお互いにただ同じレベルの馬鹿なのだという証拠なのか。
だが、あながち適当なことを返したつもりもない。
実際、今何してるかと問われれば「生きてる」としか答えようがないのだ。
朝――と言っても既に昼近くと言っていいくらい太陽が高くなってからのそのそと布団から這い出し、ブランチ代わりのカップ麺にお湯を注ぎ、そのままつけっぱなしになっているパソコンに向かったところでメールの受信音が鳴り響いたのだ。
これを「生きてる」と言わずしてなんと言おうか。
友人も相当に暇だったのか、すぐさま返事が返ってきた。先月納車されたばかりの新車の写真と、ネットで拾ったのであろう面白gif画像が添付されていた。あとから考えればさほど面白いわけでもないのだが、起き抜けに不意打ち気味で目にしたせいで笑ってしまった。
正直、ちょっと悔しい。
別に勝ち負けを競っているわけじゃないのだが、僕の中の半沢直樹が「やられたらやり返せ」と言っている気がした。スマホの画像フォルダから秘蔵の猫面白寝相写真を見つけ、無言で画像だけ送り返してやる。
「笑ったわ、お前ン家の猫オッサンかよ」
友人のひと笑いを勝ち取ったところで、キッチンタイマーがラーメンの完成を告げた。
友人とのくだらない笑いの取り合いで貴重な休日の5分を浪費してしまったという事実がなんだか可笑しくて、自然と笑いが溢れた。
麦茶の入ったコップの氷がカラン、と音を立てて溶け出した。
ありがとうと笑って伝えるための5分にしたい
学生の頃から、僕は割とこの「生きてる」時間が好きだったりする。
人に言わせれば何もせずただ無為に過ごしているだけの、もったいない時間の使い方に見えるかもしれない。かもしれないというか実際そのとおりなのでそれについて否定はしないが、そんな時間の使い方が嫌いかと言われれば決してそんなことはない。
くまのプーさんの名言に「何もしないをする」というものがある。僕はこの言葉が大好きで、この「生きてる」時間は言い換えるならプーさんの言う「何もしないをしている」時間なのだ。「何もしないをする」と言っても色々あって。文字通り何もせずボーッと外を眺めている時間もそうだし、Youtubeやニコニコ動画で適当に動画を流し見たりする時間もそうだし、とにかく極めて受動的に、あとから振り返って何一つ残らないような時間の使い方を総じて「何もしないをする」時間と僕は捉えている。
何もしない時間は素晴らしい。何もしない時間の中には、怒ったり嫌な気持ちになったりする要素がどこを探しても転がっていないからだ。
やらなきゃいけないことに追われてしまうと、どうしても上手く行かなかったり不意に見たくないものを見てしまった時にとても気持ちが沈んでしまう。
その点、何もしない時間はそんな心配はいらない。ボーッとTwitterを眺めていたら素敵なイラストが流れてきたとか、Youtubeのおすすめ動画に好きなアーティストの新曲MVがあったとか、そういう偶然が待っている。そういうときはなんだかラッキーな気分になるし、別に待って無くてもいい。それを無駄な時間と卑下する必要なんてどこにもない。休みという貴重な時間を、あえて何もせず無為に過ごしている。これほどのゼイタクは他にない。
そして、自分のやりたいことをやって過ごす時間はもっと楽しい。むしろ、大人になってからこの楽しさがわかるようになった気がする。自室で、あるいは自分の好きな場所で。1人で、もしくは誰かと一緒に。どうせ同じ時間なら、笑いながら過ごしたほうが泣いて過ごすより良いに決まってる。
「LITさんは頻繁に東京と青森を行ったり来たりして大変じゃない?」
よく友人に聞かれるが、僕個人としてはちっとも大変だと思ったことはない。そこには間違いなく僕にとっての好きと楽しいが待っていて、そこで過ごす時間が僕にとって”良い”時間の使い方になると確信しているからだ。そして、出来るならその時間は誰かの悪いところを指摘して使うより、誰かの良いところを褒めながら使っていきたい。どれでも同じ自分の時間なのだから。