ゆたんぽを抱いて寝る。

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猫のこと、本のこと、アニメのこと、野球のことetc...思いついたまま、気の向くままに。

ゆたんぽを抱いて寝る。

夜は短し歩けよ乙女(2020.6.28 BLUE EGG あや卒業EVレポ)

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これは私のお話ではなく、彼女のお話である。

役者に満ちたこの世界において、誰もが主役をはろうと小狡く立ち回るが、まったく意図的に彼女はその夜の主役であった。そのことに当の本人も気づいていた。今もまだ覚えておろう。

これは彼女が酒精に浸った夜の屋敷を威風堂々踊り抜いた記録であり、また、ついに主役の座を手にできず路傍の石ころに甘んじた私の苦渋の記録でもある。読者諸賢におかれては、彼女の可愛さと私の間抜けぶりを二つながら熟読玩味し、杏仁豆腐の味にも似た人生の妙味を、心ゆくまで味わわれるがよろしかろう。

願わくは彼女に声援を、そして盛大な祝福を。

 

彼女は大学のクラブの後輩にあたり、私は密かに彼女に思いを寄せていた。

彼女が東京のさる高貴な屋敷で女給をしているという話を聞いた。これは、ある信頼すべき筋からの情報である。それを聞いたとたん、天啓と言うべき計画が浮かんだ。

屋敷の門が開く音に、彼女が振り返る。彼女が視線を向けると、そこに立っているのは私だ。「先輩、こんなところで会うなんて奇遇ですね」と彼女は言うだろう。すかさず私は優雅な微笑で応え、「ま、たまたま通りかかったものでね」などと嘯くのである。

屋敷では盛大な宴会が開かれていると聞く。そこで私と彼女は電気ブランを飲み明かし、優雅で知的な会話を成し、酒も進んできたあたりで気を大きくした私は彼女に写真なぞ懇願してみたりするのだ。彼女もまた酔いに任せて気が大きくなったのか、それに笑顔で答える。夜鳥のさえずりを聞きながら薬草茶で休憩としゃれこみ、熱を上げている作家や映像作品について語り合ううちに、二人の間にはいつしか互いへの信頼が生まれているであろう。その後は、天が私に与えた才覚を持ってすれば、事はきわめて容易だ。万事はおのずから私の思い描いた通りの経過を辿らざるを得ない。その先にあるのは黒髪の乙女とともに歩むバラ色のキャンパスライフである。

我ながら一点の曇りもない計画で、実に行雲流水のごとく、その展開は見事なまでに自然だ。事が成就した暁には、必ずや我々は語り合うに違いない――「思えばあの夜の偶然がきっかけだった」と。

どこまでも暴走する己のロマンチック・エンジンをとどめようがなく、やがて私はあまりの恥ずかしさに鼻から血を吹いた。

恥を知れ。しかるのちに死ね。

そんな不埒で助平で阿呆なことを考えながら歩いていたものだから、天は私に罰をお与えになった。下宿の階段から見事に転げ落ちた私は、左膝内側側副靭帯断裂という重症を負い、黒髪の乙女と組んで歩くはずの左腕は、無機質で硬い松葉杖と組む羽目になってしまったのである。実に、計画実行の三日前のことであった。

 

人間諦めが肝心などと言う者は多い。しかしながら、私の辞書には残念なことに諦めるという文字が欠落していたのである。恐らくは鼠にでも齧られたのだろう。普段は食い物を不埒勝手に食い荒らす鼠であるが、この日ばかりは鼠畜生にも感謝の言葉を述べておくとしよう。二日間でまるで旧知の間柄のごとく密接な関係になった松葉杖を左足の頼りとし、バスと電車を乗り継ぎ、私は件の屋敷の前に立っていた。地上七階地下一階の巨大な屋敷、その頂点は見上げねば拝むことすら出来ない。

エレベーターに乗り宴会場のある階に辿り着く。宴会場と言うよりは小洒落た喫茶店という風情である。十席程の座席は半分以上埋まっていて、何人かの男女が既に酒を飲み交わしている姿が見えた。既に宴会が始まっているのかと思ったが、女給によれば十七時かららしい。そして、彼女の姿はまだ無い。どうやら少し早く着いてしまったらしい。これではまるで私が彼女の姿を求めてはるばるやってきたように思われてしまうではないか。しかし、ここで「これは失敬、私はどうやら場所を誤ってしまったようだ」などと言って引き返すのも無粋というものである。私は努めて平静に、まるで宴会の音を聞きつけてふらりと立ち寄ったと言わんばかりに堂々と松葉杖と共に一歩踏み出し、女給に促されるまま席についた。

私がしばらくの間屋敷自慢と言う珈琲や紅茶に舌鼓を打ち、せわしなく歩き回る女給達に目を奪われているうちに、炊事場と奥の間を繋ぐ扉が小さな音を立てて開いた。誰かがワァっと声を上げる。途端に、宴会場の空気がガラリと変わる。一瞬にして熱を帯びた空気が、逃げ場を求めて縁側へと駆け抜けていく。奥の間から現れたのは、髪色と同じ黒色のワンピースに身を包んだ後輩であった。聡明な読者諸賢であれば、おのずからこの時の私の知的とはまるでかけ離れた間抜けな表情は想像するに難くないだろう。

 

彼女はいささか緊張気味の面持ちで宴会場を見回し、それから宴会場をぐるりと一周する形でひとりひとりに挨拶をして回った。彼女が通った後にはそれはそれは華やかな空気が舞い、またたく間に宴会場は彼女一色になってしまった。それにしても、顔馴染みの常連客のなんと多いこと。誰も彼もが彼女を求めてやってきたのではなかろうか。これではまるで、彼女こそがこの場の主役、『偏屈王』の主演女優を演じきった学園祭の再来ではないか。

やがて、彼女がカウンターに座る私と、今宵の相棒たる松葉杖を見つけて駆け寄ってきた。

「先輩、お久しぶりです」

その言葉と笑顔に、私はまたしても間抜け面を晒しそうになってしまう。知的で優雅な先輩とは一体何だったのだろうか。そもそも、私の横で松葉杖が私よりも激しく自己主張をしている時点で、私という存在がまったくの道化にしか見えなくなっていたのだが。

「ま、たまたま通りかかったものでね」

なんとも苦しい言い訳だろうか。ああ、白状しよう。靭帯の切れた男が電車とバスを乗り継いで東京くんだりまで足と松葉杖を運ぶことの一体全体どこにたまたま通りかかる要素があろうか。道化が道化らしいことを口にしてますます道化じみた顔つきになっていると、彼女は可笑しそうに笑った。

「先輩、お足はどうされたんですか」

「いやはや、つい先日下宿の階段から転がり落ちてしまってね」

「それは実に先輩らしいですね」

一体全体どこをどう読み解いたら私らしいということになるのやら皆目検討もつかない。これでも私は母親の胎内よりこの世に産まれ出てからというもの、大病を患ったこともなければ大怪我を負ったこともない。あるのは、自転車のスポークに足を挟んで一回転した際に肘の骨に罅が入った程度のことだ。

「ところで、今日の服装は一段とお似合いでお綺麗ですね」

彼女がこの屋敷で女給をしているという情報は既に入手している。だからこそ、私は彼女が女給服ではなくワンピースを着て姿を見せたことに大変驚いたのである。そして、その姿は紛うことなき理想的な黒髪の乙女そのものであった。

「おや、それは嬉しいことを言ってくださる。実は、女給服とワンピースで最後まで迷っていたのです。先輩にお褒めの言葉をいただけたので、これを着てきた甲斐がありました」

と、その時宴会場の奥からワァっと歓声が上がった。天狗でも現れたのかと思い目を遣ると、女給が三鞭酒の瓶を掲げているところだった。どうやら、あの三鞭酒は彼女のために振る舞われるものらしい。

そして、それを皮切りにあっちのテーブルでも三鞭酒、こっちのカウンターでも三鞭酒と、まるで三鞭酒の叩き売りのような盛況ぶりで次々と三鞭酒が用意されていく。彼女はひとりひとりに嬉しそうに感謝の言葉を述べ、宴会場の全員が注目する中で一本、また一本と木栓を抜いてゆくのであった。

私は三鞭酒にあまり嗜みがないのだが、どうやら三鞭酒の木栓を抜く際には秒読みが入るらしい。何度やっても零より前に木栓を抜いてしまう彼女の姿がおかしくて、気がつけばそれを見ながら私のグラスは空になっていた。私は女給を呼び、薬草茶を頼んだ。

 

木栓抜きの旅を終えた彼女が私の前にやってきたので、しばし彼女と久々の歓談を楽しんだ。久々に会う彼女と一体何の話をしようかと思案しながら、ふと思い浮かんだのはよりによってあの東堂の顔であった。彼女は東堂を恩人と呼ぶが、私にとってはあの日先斗町の酒場で彼女と揉みつ揉まれつしたいまいましいやつでしかない。奴の真似事でもしながら一丁前に人生論でも語って聞かせようなどと一瞬思っては見たものの、語って聞かせるような人生論など持ち合わせていなかった。

「それに、東堂の真似事をしていれば最終的に私は『お友だちパンチ』をお見舞いされた挙げ句屋敷からつまみ出されることでしょう」

「それは間違いありませんね」

念の為記録しておくが、私は東堂のような助平な人間などでは決して無く、それは硬派で誠実で典雅な大学生である。酒が進もうと、全身に周りきろうとそのような狼藉を働くことは決して無かっただろうし、待っているのはバラ色のキャンパスライフ以外の何ものでもないのだ。それを間違えぬよう、どうか読み進めて欲しい。

 

私が久々に口にする電気ブランの味を確かめていると、どこからともなく食欲をそそる良い香りがしてきた。時刻は十八時を回ったところである。酒が進めば当然腹も減るのは自然の摂理だ。見れば、そこには見覚えのある鍋がぐつぐつと煮えたぎっているではないか。それはあの日、古本市で私が彼女の探していた「ラ・タ・タ・タム」という絵本をかけて文字通り死闘を繰り広げた時に李白翁の手によって振る舞われた火鍋であった。

こんなところで再び見かけることになるとは思いもせず、あの日の地獄が一瞬頭を過ぎったものの、私は火鍋を一杯頂くことにした。あの体中が燃え盛りそうな辛さを思い出しながら口に含み――安堵した。

あの想像を絶するような辛さはなく、そこにあるのは純粋に旨味が凝縮されたキムチスープだった。加えて、宴会場は空調が効いていて、大変に心地が良い。そうなると困ってくるのは、火鍋を食べる箸が止まらないことと、注いではまたたく間に私の胃袋の中に消えていく電気ブランが余りにも美味しいということであった。彼女は三鞭酒を注ぎながら常連客と楽しく歓談している。あとから聞いた話だが、彼女はどうやら一年近くの時間をこの屋敷で女給として過ごしていたらしい。この屋敷と縁が薄いのはどうやら私と、本当に「たまたま通りかかった」隣に座る青年だけのようであった。積もる話はいくらでもあるのだろう。テーブルとカウンターをせわしなく行き来する彼女はどの瞬間を切り取っても可憐で、大変に幸せそうであった。

 

私が二杯目の火鍋に舌鼓を打っていると、懐かしい音楽が流れ始めた。随分昔に私が好んで視聴していた動画作品の楽曲だ。当時の懐かしく、少しだけ苦々しい思い出を振り返りながら音楽に耳を傾けていると、彼女がいつのまにか側に立っていた。

「やあ、この火鍋は非常に美味しいですね」

彼女の表情が、電球に明かりが灯ったように表情がぱっと明るく変わった。

「本当ですか。そう言っていただけると、昨日準備した甲斐があったというものです」

読者諸賢におかれては、このときの私の心情を存分に慮って欲しい。私の胃袋を満たしている火鍋はなんと彼女の手製だったのである。そう思って食べる火鍋のなんとも美味しいことよ。

「そういえば先輩。この音楽は私が好きだった動画作品の楽曲なんですよ」

なんという偶然であろうか。以前から彼女とは趣味が合うと思っていたが、まさかこのようなところで新たな共通項を見つけることになると誰が巡り合わせたか。日本中の神様が神無月に出雲に集い会合を開くというのはあまりに有名な話ではあるが、よもやそこで人と人の結んだり切ったりしているのではなかろうか、などと馬鹿げたことすら考えてしまう。かような大都会の屋敷の一角に、このような趣味趣向の似通った人間同士が巡り合わせることなど、そのような偶然があろうものか。

「偶然ですね。私もこの動画作品は随分と好きな口でね。T氏のラヂオやK先生の原作漫画もすべて楽しんでいたのだよ」

「私もT氏のラヂオを随分と聞いていたものです」

「おや、すると君も私と同じ”残党”の一人というわけか」

やあやあ、まさかかようなところであの伝説となった番組の愛好家と出会えることになるとは誰が結んだ縁だというのか。我々の時間はいつのまにか十年の歳月を遡り、動画作品のこと、ラヂオのことで話題はどんどん深まっていった。役者の話をきっかけについには更に時を遡り、我々はついぞ十数年前の時代へと着地してしまったのである。

「あの作品は本当に面白い作品でした。主演女優の演技が大変素晴らしいのです」

彼女が興奮気味に言えば、

「違いない。ちなみに私は未だに第二期を待ち続けている」

私もそれに続いた。

余談ではあるが、私には数年来の友人が一人いる。便宜上彼の名をK氏としておこう。彼は私と同じかそれ以上に件の動画作品に明るく、彼もまた我々と同じく”残党”の一人なのだ。後輩がここまでの愛好家と知っていたならば、面識こそないがK氏を連れ立って来ても良かったかもしれない。愛好家として、また、同じ”残党”のひとりとして同士を見つけ、語らう楽しさを私も彼も、そして彼女もまた知ってしまっているのだ。

 

宴会はついに三時間を越えた。途中、隣の見知らぬ青年から三鞭酒のお裾分けを頂いたり、女給が誤ってグラスに注いでしまった電気ブランをこれ幸いと飲むなどして、私も随分と酔いが回ってきた。三鞭酒は飲みやすくて仕方がない。

「何かお飲みになりますか」

未だ衰えることのないにぎやかな宴会場の様子を眺めていると、ほんのりと顔を赤らめた彼女が声をかけてきた。さすがの彼女も、あっちのテーブルで三鞭酒を飲み、こっちのカウンターで三鞭酒を飲み続けたことで僅かに酔いが回っているらしい。私は少し考えた後、三鞭酒を頼むことにした。せっかくなので、私からも同好の友であり”残党”仲間である彼女に一杯ご馳走したくなったのだ。そのくらいのことをしても、バチは当たるまい。バチならば既に靭帯断裂で釣りが来る程当たっている。

相変わらず秒読みの前に木栓を抜いてしまう彼女を見ながら緩みきった顔でヘラヘラと笑っていると、私と彼女の前に空のグラスが置かれた。三鞭酒グラスではなくウヰスキーを嗜む際に用いられるロックグラスなのは不思議だったが、女給の一人が三鞭酒グラスを割ってしまった結果グラスが足りなくなるという珍事が起こったことを、後から聞いた。桃色の透明感のある液体が、ゆっくりと注がれていく。私はこんなにも美しく、輝かしい液体が他にあろうかと感動に耽りながらそれを眺めていた。グラスに注がれた三鞭酒は静かに湖面を揺らし、早く飲みたまえと私を急かしている。

グラスを手に持ち、一度彼女と目配せをする。我ながらこういう時に気の利いた台詞の一つでも言えれば格好が良いのだが、そのような語彙力も、それを引き出す程に回る頭も、酔いの回った私はどちらも持ち合わせてなど居ない。

「黒髪の乙女の輝かしい前途を祝して、乾杯」

「乾杯」

グラスが、音を立てて触れ合った。

私はグラスに注がれた三鞭酒を、ゆっくりと口に運ぶ。一口呑んだだけで、なんとも芳醇な桃の香りが口の中に広がっていった。味わいながらゆっくりと飲み込み、彼女の顔を見れば彼女もまた満足気に空になったグラスに手酌で残った三鞭酒を注いでいるところであった。まったく、本当に彼女は酒が好きなのだということを改めて認識させられた。私も普段ならば下宿で一人安酒を煽るだけの寂しい人生を送っている中、こうやって賑やかな宴会で、それはそれは美味しそうに酒を飲む黒髪の乙女を見ながら酒が飲めるということに大変な幸福を感じながら、空になったグラスをそっと置いた。

そして、私はすっかり忘れかけていたことを思い出した。

「ときに、写真を一枚お願いしてもよろしいでしょうか」

我ながらよく思い出したと脳味噌を絶賛してやっても良い。絶賛するのも絶賛されるのも脳味噌、ひいてはそれらすべて私に帰結することなので、壮大な自画自賛であることは言うまでもない。彼女はニコリと笑った後に、

「ええ、構いませんよ」

何故か私の松葉杖を持ってカメラマンと屋敷の奥へと消えていった。ああ、本当であれば彼女の隣に立つのは私であったはずなのに。それを松葉杖の分際であろうことか彼女に触れることすら許されるとは。ええい、無機質の分際で生意気千万である。この三日間で旧知の間柄となったと思っていたが、どうやらそう思っていたのは私だけだったようだ。松葉杖の野郎は私を助けるつもりで、したたかに彼女との接触を図ることに成功し、それだけに留まらず彼女と一緒に写真まで撮ることに成功してしまった。私は足が治った暁には、二度と使うことのないよう毎日牛乳を飲み足元には最新の注意を払って生活しようとそっと心に誓った。

 

時計の短針が九の文字を指している。本当であれば、先斗町を飲み歩いたあの日のように私は一晩中でも飲み明かしたい気分だったのだが、そうは問屋が卸さない。なにしろ、私は靭帯断裂の松葉杖状態でバスと電車を乗り継いでこの大都会までやってきた身。再びバスと電車を乗り継いで下宿まで戻らねばならぬ身なのだ。女給の一人に精算を頼んでいると、私の出発を察したのか彼女がやってきた。

「今日は来ていただき本当にありがとうございました」

彼女が深々と頭を下げる。

「実は先輩が先日もいらっしゃっていたことは聞き及んでおりまして、それで本日はお見えないならないかと実は思っていたのです」

空になったグラスを手でくるくると遊ばせながら彼女は言った。先程よりも更に少し赤らんだ表情で、酔いが回ってきているのがわかる。

「ご覧の通り、私は靭帯が切れようと竜巻で錦鯉が攫われようとここへ来るつもりでした。おかげで今日という日は大変に有意義で楽しい、一生忘れることのできない日になりました。こちらこそ本当にありがとうございます」

彼女は大学のクラブの後輩にあたるので、この先何度も顔を合わせることになる。だというのに、何故か今宵この瞬間だけは今生の別れのような気がしてしまった。狐に化かされたのか、あるいは天狗の術なのかわからないが、この時ばかりはそう思ってしまったのである。おそらく、私はすっかり酔っ払ってしまっていたのだろう。普段ならば錆びついていて回ることのない頭も口も、グリスを注した機械のようになめらかに動くのが自分でもよくわかった。

「個性豊かな人が集うこの場で、貴女のような人間と出会えたことは私にとって幸運なことでございます。この数奇な運命に感謝しながら、またどこかで偶然出会えたその時は、是非ともよろしくおねがいします」

彼女は色々と頭の中で言葉を探しているようであった。彼女もまた、私と同様かそれ以上に酔いが回ってきているのだろう。普段ならば気を許した人間の前でしか酔った姿を見せないと言っていたが、つまりはそれほどに今宵の宴会は彼女にとっても素晴らしく、酔った姿を見せるに相応しい場だったということなのだ。

「先輩、本当にありがとうございました。また、どこかでお会いしましょう」

そう言って、彼女は私に向かって右手を差し出してきた。本来であれば私ごときが彼女に触れることなどあってはならない。『お友だちパンチ』どころの騒ぎではないのだ。この手を握り返してしまったその瞬間、黒服の男達に囲まれて屋敷からつまみ出され、気がついたら私は誰もいない下宿の布団にいるのではないだろうか。そんなことを一瞬だけ考えた後に、

「ええ、またどこかで」

馬鹿げた心配事など全て鴨川大橋の欄干から投げ捨て、私は彼女の手を握り返した。

手の温もりは、彼女の笑顔のように柔らかくとても暖かかった。

 

下宿の布団から身体を起こし、私は時計を見た。時間は既に昼を回っている。

なんだか、長い長い夢を見ていた気がする。夢の中で私はなぜか冴えない男子大学生で、密かに思いを寄せている黒髪の乙女と共に不思議な屋敷で摩訶不思議な宴会を共にし、酒と言葉を酌み交わし、動画作品の話や好きな作家の話をしておおいに盛り上がったような、そんな夢である。我が夢ながらなんとも御都合主義でひねりのない、浮ついた破廉恥で助平心丸出しの脚本だろうと笑ってしまう。

恥を知れ。しかるのちに死ね。

と、そこで私は左足が思ったように動かないという違和感に気がついた。布団をめくると、白い包帯が左足にぐるりと巻いてある。ご丁寧に添え木までしてあり、がっちりと固定してこれでは自由に動かせるわけもない。さて、そうするとあれは夢ではなかったのだろうか。あるいは、今はまだ夢の旅路を彷徨っているところなのだろうか。夢と現の境界が解らなくなってしまった迷い子のような私であったが、ふと枕元に置かれた机を見て悟る。昨夜の出来事は嘘でも夢でも幻でも、はては天狗の術でもなく、全て確かに私が見て、聞いて、話した出来事だった。そう、私はたしかにあの時だけは、四畳半の下宿に住む男子大学生で、彼女の先輩だったのだ。

「黒髪の乙女の前途に、祝福を」

机の上に置いてあった写真――なぜか私の松葉杖をついた彼女の写真を眺めながら、私は一人呟くのであった。

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