ゆたんぽを抱いて寝る。

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ゆたんぽを抱いて寝る。

オリジナルショートショート「引退会見」

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引退です

 

液晶の向こう側に、フラッシュの花が一斉に開く。そこに写っているのは、誰もが知る超人気俳優のSだ。Sは咲き乱れるフラッシュに一瞬だけ目を細めた後、ニッコリと笑ってそのまま席についた。

「この度は、お忙しい中お集まりいただきありがとうございます」

Sが深々と頭を下げると、再びフラッシュが煌々と焚かれる。それもそのはずである。会場に集った記者も、画面の向こう側で見守る視聴者も、誰もがこの会見が後に伝説となることを確信していた。

「それではこれより、私Sの引退記者会見を執り行います」

始まりは、つい三日前だった。

新しく施行された法律の是非について連日報道合戦が絶えない中、突如として発表されたSの引退記者会見。小さな頃から子役として人気を博し、大人になっても尚演技派俳優として日本を、そして世界を沸かせた人物の突然の引退発表に、日本中が、世界中がざわめきたった。

Sは、引退を匂わせるようなスキャンダルなんてひとつもない俳優だ。25歳の時に一般女性と結婚し、二人の子宝にも恵まれ人間としても役者としても順風満帆な人生を歩んできた。二人の子どもも今では成人し、一人は同じ役者として、一人は歌手としての道を歩み始めている。二人の子どもの成長を楽しみにしながら自らもまだまだ成長を続けると思っていただけに、此度の引退記者会見は異例のテレビ、ラジオ、ネットの三媒体で中継が敷かれることとなった。

Sがゆっくりと語りだす。

「先日発表された通り、私Sは本日をもって”引退”を宣言させていただきます」

その声には後悔や悲痛の念など一切籠もっていない。我々がよく知る、ドラマや映画で何度も見てきた自信に満ち溢れた、満ち足りたSの声そのものだった。

「私は5歳の時に子役としてデビューし、それから今まで役者としての人生をひた歩んでまいりました。苦しいこと、辛いこともたくさんありました。しかし、それ以上に楽しいことや嬉しいことがたくさんあり、ここまで歩み続けることが出来たと、振り返ってそう感じています」

それからSは十五分という長い時間を使い、これまで役者として、ひとりの人間として生きた軌跡を大勢の記者の前で語った。時折涙ぐむような姿が見えたのは、あるいはこの”引退”という選択に一筋の迷いが生じているのではとすら思えたものだが、それは全くの杞憂に過ぎなかった。

それは、Sが一通り語り終え質疑応答に入って直ぐにわかる。

「この度の”引退”について、ご自身の中で迷いや後悔はありませんでしたか?」

記者問いかけに、Sは堂々と答えた。

「迷いや後悔などは、全くありません」

それからしばらく質疑応答が続いた。

「ご家族は今回のご決断についてご理解されているのでしょうか」

「家族ともよく相談し、今回の”引退”という選択を取らせていただきました。家族も全員理解してくれています」

「一部報道では演技についてご自身が納得行くものができなくなったからと言われていますが、そのあたりはどうお考えでしょうか」

「自分で100点満点の演技ができたことは、今までありません。そもそも点数を付けるのは見てくださっている方で、私自身にできることは与えられた役と向き合うことだけですから」

引退会見の場にも関わらず、まるでいつもどおりのSの様子は、実にSらしく映った。

思えば、Sはいつだって自信に満ちあふれていて、その姿に我々はいつも魅了されてきた。もう20年以上前。世界中が未知のウイルスに侵されてしまい、映画やテレビを始め、あらゆる娯楽が世界から一瞬にして消え去ってしまったことがあったことを覚えている人はどれほどいるだろう。あれだけ世界中を恐怖に陥れた未知のウイルスも、ワクチンが出来てしまえば文字通り流行の風邪と同じようにすぐに忘れ去られてしまった。あの時も、Sは常に明るく前向きに、そしてひたむきに役者としての自分をさらけ出すことを忘れなかった。あの時、どれだけの人がSに救われたことか。

今日のこの会見は、あの時とはまるで違う。きっと10年、20年先も語られるに違いない。確信と言っても過言ではない何かを感じながら、会見の様子を見守った。

そして、会見もいよいよ終盤となった頃。

「次で最後の質問とさせていただきます」

進行役である人気アナウンサーが宣言し、そして記者の一人にマイクが渡される。

「事前の発表でSさんは今回の引退について『やりたいことをやり尽くした』と仰っていました。失礼ながら日本の芸能界にはまだまだSさんを必要としている人がたくさんいると思います。それについてどう思われますか。また、応援してくださった方々に何かメッセージをお願いしたいのですが、いかがでしょうか」

Sの引退理由。それはスキャンダルでも体調でもなく、「やりたいことをやり尽くした」という非常に前向きな物だった。引退などしなくてもいいのではないだろうか。そう思う者は非常に多く、テレビもネットもそのことで持ちきりだった。

Sは少しだけ考えるように言葉を止め、それからゆっくりと口を開いた。

「先般ご承知の通り、私は役者人生においてやりたいと思うことをすべてやってきました。また、一人の人間としてもありがたいことに良き妻と出会い、素晴らしい子宝に恵まれ、大変に充実した人生を送ることが出来ました。しかし、人間である以上いずれ衰えはやってきます。いずれ満足に演技が出来なくなる時が来ることでしょう。そんな衰弱した私を、私は皆様にお見せすることはしたくない。それならば、今この一番の幸せを噛み締めた中で”引退”という形をとり、幸せを抱きながらSという役者人生の幕を下ろしたい。そう思うようになったのです。これが、先日お伝えした『やりたいことをやり尽くした』という言葉の意味です。ファンの皆様、そして今まで支えてくださったスタッフ、そばで支え続けてくれた家族には感謝を伝えても伝えきれないことでしょう。Sという役者は今日をもって表舞台から一足先に降りますが、今日のこの日を、そして今までの日々を皆様が忘れないでいてくれる限り、Sという役者はずっと生き続けることでしょう。今まで、本当にありがとうございました」

立ち上がり、深々と礼をするS。

今日一番のフラッシュが大輪の花火のように咲き乱れた。

顔を上げたSは、全てを出し尽くしたように満足そうな表情をしていた。

その、数時間後。

ニュース速報のテロップが流れた。

『16時47分、都内の大学病院で俳優のS氏が安楽死安楽死基本法施行後初の安楽死適用者に』

役者としても一人の人間としても”引退”を選んだS。ほんの一週間前に施行された安楽死基本法は、これまで認められてこなかった積極的安楽死について全面的に認可していくというものだった。積極的安楽死は、ここ十年ほどで世界的にはもうすっかり珍しくないものとなった。体力的にも経済的にも余力を残したまま、次の世代への負担をへらすなどの目的から諸外国の著名人を中心に安楽死を選択する人が増えた。我が国にもその流れが回ってきたのが5年前。

「マスコミの皆様へ。S安楽死のお知らせと”引退”会見について」

という報せが届いたのは、一週間前にこの法律が施行となった矢先のことだった。

つい数時間前に会見していたSは、もうこの世には居ない。

やりたいことをやり尽くしたと言った彼がどのような気持ちで最期の時を過ごしたのか、それを知ることはもう出来ないのである。

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