素敵な曲でした
皆様の反応を食べて生きてます
昨日書いた記事。
ありがたいことに仲間内からその外側にまで見ていただいたようで。
驚いてくれる人やキャッキャしてくれる人がいると、文字遊びを趣味にしててよかったなと思います。今日の記事は珍しく完全に続きものなので、昨日の記事を読んでない人はまず記事を読んでほしいし、その記事を読むためにはまず「透明な君を掬う」を聞かなきゃいけないという非常に遠回りな記事ですが、よければどうぞ。
なんだろう、この講談放浪記を見るために
天保水滸伝を一通り見るところからやらなきゃいけないみたいなアレ。
筆者は全7話見ました。講談面白いモードにやっと入った気がします。
忘れることは今を生きること
改めましてこんばんは、名曲の歌詞をそのまま月曜日への怨嗟に変えて作詞の人にやめろと言われたLITさんです。
そんな月曜日を前にした社畜の歌……ではないnayutaさんの最新作「時薬」
どんなに身体の傷や痛みは消えたとしても、大事な人を失ってしまった心の痛みだけは消えない。それは、大切な”君”が目の前に居ないから。残された人の気持ちを歌った悲しみの歌なんですが、これがねぇ……やっぱりnayuta節(勝手にそう呼んでる)全開だなぁと。
歌作りというかnayutaさんの根底にあるのが、どんなに辛くても苦しくても、それでも前に向かって進んでいこうっていうことなんだろうなぁというのを感じさせてくれる、そんな歌でした。こらそこ、社畜って言わない。
歌詞をじっと見ながら聴いてて思ったのは、人の心の痛みって本当に痛くて辛くて苦しくて、簡単に消えることなんてなくて、どんな強い人でも簡単には勝てないものなんだなぁということでした。
この歌、2番までずっと後ろ向きなんですよね。1番はいなくなってしまった君のことを思い、悲しみに暮れる主人公の様子。2番は、前に戻ることも先に進むこともできなくなってしまった自分自身の苦しさや、哀しさ。もうね、本当に辛くて苦しくて嫌になって消えてしまいたい。そんな気持ちがひしひしと伝わってくるんですよ。
2番Aメロの「明日よ、もう来ないで」の消え入りそうな歌い方とか「何で僕の身体は動かないの」の泣き出しそうな歌い方とか、大切な人がいきなり目の前からいなくなってしまった悲しみが詰まってるんですよね。
からの、Cメロ。ここがタイトル「時薬」そのものなんですが、本当にここを起点にして主人公がグッと前を向いて歩き出していく。nayutaさん作詞の曲はこういう歌詞の構成が多いんですが、起承転結が一曲の中に組み込まれているから聴いている方も5分弱の物語を読んでいるように音楽を楽しめるんですよね。
びっくりしたのは、歌い方まで変わったように聞こえること。
1番も2番も、悲しみや心の痛みを背負っているのがわかるような、憂いを帯びた歌声に聞こえます。でも、Cメロで「時薬」の存在に気付いたからなのか、ガラリと歌声にも張りと明るさ、希望のようなものが籠もってるんですよね。
あと、2回登場する「忘れることは今を生きること」というフレーズ。これがこの歌のキーワードなんでしょうけど、これ最初と後で込められた意味が変わってる気がして。1番の時は「忘れることは今を生きること」なんて頭でわかってる!わかってるけど、出来るはずないでしょ!!みたいな後ろ向きなフレーズ。「今、優しい愛に変わる」という部分も、理性ではわかっていても、でも……みたいな踏ん切りのつかなさみたいなものを感じます。過去がすり抜けるっていうのがその証拠なんでしょうね。見ているのは過去、向いてるのは後ろなんですよ。それくらい、大事な人を失った悲しみって大きいんでしょう。筆者も猫とお別れして1年以上経ちますが、その過去を受け入れて前向きに生きられてるかと言われるとちょっと疑問ですしね。
対して、ラスサビですよ。時間が癒やしてくれること、時間は決して戻せないこと。それを受け入れてその上で足を進めるんだと誓った主人公の気持ちが「忘れることは今を生きること」なんですよこれ。忘れるということを受け入れて、今を生きたその先に未来があると気がついたからなんでしょうね。その証拠に、目を閉じれば未来が見えます。身体は、足はしっかりと前を向いているんです。
そして、全てを受け入れたことでやっと、時間が動き出す。未来に向かって歩き出す。
どんな悲しみも、それ以上に素敵な未来に繋がるものなんだよっていうnayutaさんからのメッセージソング……なのかもしれませんね。本当に素敵な楽曲でした。
透明な君を掬った君を勝手に救いたい
さて、ここからはもう歌の解釈とか新曲の感想とかそういうのから大きくハズレます。わかりやすく言うと、これは筆者の妄想であってそれ以上にそうあったらいいなという願望のようなものになります。公式がそうだと言っているハズはないし、そもそもあとから言及しますが細かいところ見ていけば絶対にそうじゃないということはわかってるんですが、そういう解釈だとなんかいいなという、そういうアレだと頭に入れて続きを読んで下さい。
この「時薬」という曲。勝手ながら「透明な君を掬う」の延長線上というか同じ世界線の物語と言うか、そういう物語を勝手に想像というか妄想してしまいました。
「透明な君を掬う」にしても「時薬」にしても、生と死、あるいは別れと残された人のその後を描いた曲になっています。前の記事でも書いたとおり、「透明な君を掬う」では最後、主人公であるところの”私”は最後に”君”という希望を抱いて「生きるんだ」と決意して終わります。
でも、もしかしたらここに至るまでにもっともっと葛藤があったのかもしれない。
実は、灰燼→君を掬うの間にはものすごい長い時間が流れていたかもしれない。その間に、辛くて苦しくて、涙が止まらなくてどうしようもなく後ろ向きになってしまった時期があったかもしれない。君を海に撒くことで、いよいよ目の前からすっかりいなくなってしまったという、その心の痛みに苛まれたかもしれない。
そんな葛藤から、痛みから抜け出せたのは、やっぱり時間の流れだったんじゃないでしょうか。「忘れることは今を生きること」であり、未来を夢見ることなのだと気がつけた”私”。そして、どんなに悲しみを忘れていっても、”君”という存在はいつまでも残り続けるんだということに気づく”私”。そこに至るまでどれほどの時間が流れたかわかりませんが、時が全てを癒してくれたことで、前に進もう、生きるんだと言えるようになったんじゃないかなと。だから、時間の流れとしては透明な君→追慕→灰燼→時薬→君を掬うってところじゃないでしょうか。追慕・灰燼・時薬、全部漢字二文字で並んでますしね(こじつけ)。
そんなことをね、たまたま「透明な君を掬う」と「時薬」を通しで聞いていて思ったわけですよ。
まぁ、
全部妄想です。くれぐれも本人に聞かないように。