ハイ、タケコプター
飛んでみたい
皆さんは、人生で1度はやってみたいことってありますか?
筆者はあります。
1度でいいから、全裸に札束風呂で美女を侍らせてぇ
じゃなくて。
どことは言わないけど馴染みのコンカフェで眼鏡イベントやってくれないかな。
でもなくて(それはそれ)
映像でしか見たことないんですが、特に理由もなくやってみたいというぼんやりとした野望を持ったまま今に至ります。これは本当に取らぬ狸なんですが、なんか飛べそうな気がするんですよね。
だって、命綱ついてるじゃないですか。切れたらどうするの? って聞かれても、それは「外に出たら車に引かれるかもしれない」レベルの心配なわけで。引かれる時は引かれるし、切れる時は切れるわけです。
でもねぇ、高さよりもネックになってることがあるんです。
それはね、お値段。
1回10,000円以上ってのがザラなんですよ。しかも、ちゃんと(?)橋の上から飛ぶ系の正統派バンジーになると、割とちゃんと山の方にいかなきゃいけない。交通手段は確保しなきゃいけないし、時間もかかります。で、飛ぶのが一瞬。いやぁ……コスパって言葉を安易に使いたくはないけど、なーんかこう、金持ちの遊びだよなぁ感が。
それでも、どっかで1度は挑戦してみたいですね。
ここ、気になります。
俯瞰風景
ふと、思考の海に潜っていました。
どうして、空を飛んだことがないのに空を飛ぶ感覚に憧れるのだろうかと。1度でも空に生きたことがあるのであれば、空から見下ろす景色や風を切る感覚を知っていれば、あるいはそう願うこともあるでしょう。でも、実際人間は空を飛ぶことができない生き物です。
海で呼吸せずに生活できるようになりたいとは、思わないのに。
どちらかと言えば、後者のほうが自然の感覚なのではないかとすら、思ってしまう。元々人間――生物の祖は海から陸に上がったと言われている。魚のヒレに相当する部分が、陸に上がった生物の手であり足であるとするならば、DNAの構造をバラバラに分解した時どこかに海への憧れが記録されていても不思議ではない。
それなのに、なぜ人間は空に憧れるのか。
空を飛ぶ感覚とはまた違うが、人はなぜバンジージャンプを飛ぶのか。
ストレス解消や未知の体験という人は多いが、それはひとつの臨死体験なのではないかと思っている。大人のキッザニアで人知れずひっそりと設けられている「死」を体験できる最も身近な存在それがバンジージャンプなのではないか。高いところから飛び降り、自由落下していく感覚。地面があっという間に近づいてくる感覚。あと少しで頭から地面に激突してぐちゃぐちゃの肉塊になって「死」を迎える感覚。
それらを擬似体験できるのがバンジージャンプなのだとしたら、自分にはある種の自殺願望があるのかとすら思ってくる。そんなもの実際にはないのに。あるのは、ただ緩慢に死を受け入れているという感覚だけなのに。
バンジージャンプ、飛ぶ様子を撮影してくれるサービスもあるらしい。投身自殺の映像化なんてめったにできることじゃない。それこそ、己が霊となり人間の希死念慮を操りビルから飛び降りる様を眺めることでもしない限り、土台無理な話だ。
らっきょ、久々に全部見返すかなー……
DVDを実家に送りつけてしまったので、見るならアベマでレンタルか。
そろそろ月姫リメイクに手を出すか(買って積んである)、諦めて今更まほよ買うか。なんだかんだ夏コミで久々にきのこの文章に触れたのもあって、地味に型月熱が再燃してたりする今日このごろ。
とはいえ、軌跡とヴァルキリーで来年の夏くらいまで手一杯だろうなー……贅沢な悩みに溺れて死にそう。
余談
意味が知りたいだけなんだよ余計な真似すんな