すべてフィクションです
思い立ったが吉日
「たまには外でご飯なんてどう?」
越冬した虫達が暖かさを求めて太陽の下に顔を出す季節。数日ぶりに雲間から見えた夕焼けが窓から差し込んできた時、僕はちょうど深淵の主マヌスに本日3度目の敗北を喫したところだった。
珍しいね、引きこもりの君がそんなことを言い出すなんて。
ソウルも人間性も失いリスポーン地点に戻されたキャラクターが映る画面から目を離し、こたつで猫と戯れている彼女に目を遣る。
「心外ね。まるで私が1日のうち16時間は家でダラダラ過ごしてるみたいな言い方じゃない」
猫を抱っこしながら、彼女は湿り気のある目線を僕に向かって投げつけてくる。
残り8時間は寝てると考えれば、それは結局一日中家から出てないということなのでは。
「揚げ足を取らないの」
真実を述べたまでだよ。
「もういい、今日はおうちごはんにする」
ぷいっとそっぽを向いてしまった。そんな仕草も可愛いんだけど、それを口に出したらきっともっと拗ねてしまうことを僕は知っている。
だから、音もなく椅子から立ち上がると彼女にそっと近づいて、後ろから思い切り抱きしめることにした。
「~~~~~~~~~!?」
声にならない声を上げて僕の腕の中でバタバタと暴れる彼女。だけど引きこもりのもやしっ子の腕力なんてたかが知れている。最近新しくした洗濯洗剤の香りだろうか、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
ごめんて。だからどっか外食行こう?
そう言うと彼女はちょっと不機嫌な顔で、腕の間から僕を見上げた。
「お酒もね?」
はいはい。
それから二人で軽く身支度を整えてタクシーが来るのを待った。これは二人の約束事。どこに行くにも車を使う。極力歩かない。清く正しいインドア派のあるべき姿だ。
部屋着全開な僕はともかく、家から出ないくせに立派な身なりをしている彼女は改めて整えることなんてないんじゃないの? と思ったのだが、
「女の子にはそれなりに準備ってものがあるのよ」
ということらしい。今の僕には理解できない。
二人で飲みに行くなら個室にするべき
街に着く頃には傾きかけていた日もすっかり沈み、夜が降りてくる――もとい、夜の帳が下りてきていた。
入れ替わるように色とりどりに光り輝くネオンサインの明かりが、眠らない街を彩っている。
さて、どこにしようか。
そう言ってはみたものの、こちらは普段街に出ることがない生粋の引きこもり。一緒に住むようになって長くなるとはいえ、女の子を連れて入るような小洒落た店なんて知っているわけもなく。
ダメ元でちらりと脇を見やれば、
「ん、私はどこでもいいよ?」
いつもより少しだけ楽しそうな彼女は、物珍しそうに周囲を見回していた。
どこでもいいって言ったって、じゃあ●タミってわけにもいかないでしょ。
「それでもいいよ?」
……こっちがよくないの。
「ふぅーん」
家を出る前に食べログで調べていた店を探すため歩き出す僕と彼女。
地図アプリを頼りに歩き回ってはみたが、不思議とこれが見つからない。
"この信号を左です"
"この交差点を左です"
なぜだろう、さっきからずっと同じ通りをぐるぐる回っている。
3月に入ったとはいえ、まだまだ夜に吹く風は寒さが残る。
大丈夫、寒くない?
「大丈夫、寒くない。でも、ホントにそのお店あるの?」
んー、この辺りなのは間違いないと思うんだけど……
「ねぇ」
ちょっとまって、今地図見てるから。
「ねぇってば」
んー、こっちかな。いや、もしかして一本手前を左か……
「えいっ」
ーーっ!!
脇腹に鈍い痛みが走った。
何する――
「ここじゃない、そのお店?」
ふぇっ?
「ほら、看板にお店の名前書いてあるでしょ」
通り沿いの古いビル、その2階部分。
彼女の指差す先、そこには"吉亭<迷い家>(マヨイガ)"と書いた小さな看板が確かに出ていた。
「ねっ、ここでしょ?」
ドヤ顔の彼女に促されるままに薄暗いビルの階段を登る僕たち。
何度も通ったのに、なんで気付かなかったんだろう。
妙な違和感は、店の扉を開けた時点でどこかに飛んでいった。
気遣い上手の――さん
席に案内してくれたのは、赤ブチ眼鏡のよく似合う、童顔ながらも素敵な美少女だった。
「いいもの見たって顔に書いてある」
掘りごたつの席に着いて、開口一番呆れ顔の彼女が言った。
怒った? ねぇ、怒った?
「怒ってほしければそれはもう灰も残らないくらいに怒ってあげるけど?」
すいません調子乗りました。
最初に飲み物をと言われたので僕はビールを、彼女はカシスオレンジを頼んで待つ。
「夜は随分と賑わってるのね、この街」
コートを脱いだ彼女はそんな感想を漏らした。
そういえば夜に連れてきたことはなかったかもしれない。
「前に一度だけ来たけど、あの時は映画見てすぐ帰ったからね」
あぁ、そういえばリリカルな●はの映画一緒に見たっけ。
「時間も時間だったし、終わった後に○○ったら目を真っ赤にしてるんだもの。ごはんなんて行けなかったむきゅ――」
恥ずかしい思い出を想起させられそうになったので慌てて彼女の口をふさぐ。
まったく、古明地さんちのさとりさんじゃないんだから。
Twitterで「お前ら歌い手の最初の推し誰だよ」ってハッシュタグが流行ってる話をしているうちにお酒とお通しが運ばれてきた。
それじゃ、乾杯を。
「なにに乾杯するの?」
そりゃあ君の瞳に。
「HUGっとプ●キュア最終回記念にかんぱーい!」
甲高いグラスの音が個室に響いた。えっ、僕の渾身のボケは?
「はいはいおもしろいねー」
うぐぅ。
「今年で20周年ですって」
その言葉は僕を深く傷つけるからやめてください。
傷口を無理やり縫い合わせるようにお通しを口に運ぶ。居酒屋では定番の牛すじ煮込みだが、これがビックリするくらい美味しい。
ホロホロになるまで煮込まれているおかげで口に入れた瞬間溶けるように口の中で牛すじが解けていく。しっかりと染み込んだ味は少し濃い目で、それでいて決して大味ではない。一口食べると無性にビールが欲しくなる絶妙なバランスだ。
ねぇこれ食べた? めっちゃ美味しい。
「ん……ほんと、おいしい」
普段から感情の見えにくい顔をしているので付き合いの長い人間にしかわからない程度の機微だけど、彼女の顔がぱぁっと明るくなったような気がした。
その顔を見ているだけでビールがどんどん進む。
あっという間にジョッキは空になってしまい、さて今度は何を頼もうか。あれ、メニューメニュー……
「あなたがお探しなのはこのドリンクメニューですか? それともこっちのフードメニューですか?」
声の主は、泉の女神よろしくメニューを両手に抱えていた。
いや、元より僕にとってはずっと女神のような存在なんだけども。
じゃあ、どっちもください。
「ワガママな○○にはバツとしてこの『高級鴨肉ステーキ』を頼んでもらいまーす」
女神の言う事なら従わねばなるまい。
僕はビールのおかわりと彼女ご所望の高級鴨肉ステーキ、他にも何点かおつまみになりそうなものを頼んだ。
平日だけど忙しいのか、料理は小刻みに運ばれてくる。
本命の高級鴨肉ステーキが運ばれてこないが、その前に彼女のグラスが空になった。
チョレギサラダが運ばれてきたので店員を呼び止めて梅酒を注文する。
僕のグラスにはまだビールが残っていたが、このくらいならすぐに無くなる。少し考えて、熱燗を一本頼んだ。
おちょこはもちろん2つだ。
それからまたしばらく待って、ようやく高級鴨肉ステーキが運ばれてきた。
僕たちの第28次おジャ魔女どれみで一番かわいい子は誰か戦争はここで再び休戦協定が結ばれた。
僕は俄然おんぷちゃんが一番だと思ってるけど、彼女はあいこちゃん派らしい。
いや、わかるんだけど1番って言われるとまたそれは別の話に――いや、この話はよそう。争いしか生み出さない。
そしてふと時計を見て既に入店から1時間近く経っていて、僕は時の流れの速さにたいそう驚かされた。
「それだけ楽しんでるんだよ、○○も、私も」
おうちごはんもいいけど、たまには外食も良いね。
「私は毎日外食でもいいんだよ?」
僕の稼ぎが今の3倍位になったらそうしようね。
「つまりそんな未来はやってこないと」
おっしゃる通りで。
鉄板の上でジュウジュウと美味しそうな音を立てている高級鴨肉ステーキを一切れ頬張ると、想像通り――いや、想像以上の幸せが口の中に満ちていくのがわかる。
コショウが効いていて、噛むほどに鴨肉の濃厚な味が広がる。
分厚くカットされているのに、軽く噛み切れるほどに柔らかい。
「これは……絶品ね」
どうやら彼女も同じ感想を持ったみたいだ。
昔は食が細い、というより食に関心がなかった彼女だったが、僕に影響されてか今ではすっかり美味しいものと美味しいお酒が大好きになった。
僕の密かな自慢。
「どうしたの、食べないなら貰うよ?」
彼女が箸を伸ばすが、そうは問屋が卸さない。
一世一代のジャンケン勝負に辛酸を嘗めさせられた頃、ちょうど彼女が頼んだ梅酒が運ばれてきた。
彼女がそれをたいそう美味しそうに飲むのを、僕は奥歯をギリリと噛みながら見ていることしか出来なかった。
どうせなら鴨肉を噛み締めたかった。
寂しい口元を、代わりに熱燗で潤す。鼻に抜ける日本酒の香りが心地よかった。
「ねぇ、私にも……ちょうだい」
おちょこを持った彼女の顔はわずかに紅潮していて、いつもより少し艷っぽく見える。
幼さの残る顔つきがわずかに緩んで見えた。お互い少し酔いが回っているのだろうか。
僕も彼女も、あまりお酒は強くない。だけどふたりともお酒が大好きなので、ついお互いが飲んでるものを見ると飲んでみたくなる。
彼女のおちょこに熱燗を注いで、代わりに梅酒のグラスを引き寄せた。
じゃあ、改めて乾杯でも。
「君の瞳に?」
それはもういいよ。今になって恥ずかしくなってきた。
それじゃあえっと……ごちうさ3期決定に乾杯!
「かんぱい」
この日何度目かの乾杯の音色が居酒屋の小さな個室に響く。
たまに行くならこんな店
曲名のわからないジャズの音色に混じって話し声が聞こえてくる。
あれから1時間ほど後。
僕たちは"吉亭<迷い家>"を出て、行きつけのバーへと場所を移していた。
先客は二組ほど居たが、僕たちが入って間もなく一組は帰っていったので、10席にも満たない店内はとても静かな空間となっていた。
彼女の目の前には真っ赤な液体の入ったカクテルグラスがちょこんと置かれていて、彼女はそれを僕のスマホで撮っている。
スマホはおろか昔から携帯電話すら持たない彼女だが、どこで覚えたのか一通りの操作はできるらしく、僕のスマホには時折知らない写真が増えていることがある。
僕はシャンディガフの入ったグラスに口をつけ、一口。
あれだけ飲んだ後だと言うのにまだ身体はアルコールを求めているのがわかる。
それ、トマトのカクテルだっけ?
「フルーツトマトだって」
若い女性マスターが言うには、この季節のフルーツトマトは甘さがあってカクテルに向いているらしい。
見た目も相まって最近の女子に人気カクテルだという。
トマトを使ったカクテルと言うとレッドアイがまっさきに浮かんだが、あれよりももっと甘く仕上がるらしい。ベースがどうとか何を混ぜるとかいろいろ聞いた気がするが、アルコールの入った頭でそれを理解するのは至難の業だった。というか無理だった。
それで、味は?
「もっといい声で」
僕に大●明夫ボイスは出せないです。というかウチにそのソフトないでしょ。何で知ったのそれ。
「『めたるぎあま●お』で見た」
随分と古い動画持ってきたね! CV桑島法子のえーりん先生が可愛いやつね。
「実物はもっと年食って――」
わーわー!!
「あら、思った以上に甘い。全然青臭くないのね」
僕がひとりで慌てているうちに、彼女は優雅にカクテルを口の中で転がしていた。
一口貰って飲んでみると、たしかに甘くて美味しい。
恐らくアルコール度数もあまり高くないのだろう。食後酒としては大正解だ。
一応シャンディガフ飲む? って聞いたけど、笑顔で断られた。
あんまりビールが好きじゃないのを僕は知っている。
残っていたもう一組が帰り、いよいよ店内にいるのは僕たちだけになった。
「いいお店ね。よく来るの?」
おつまみのナッツを食べてから彼女が聞いてくる。
たまにね。
「ひとりで?」
基本おひとりさまだよ。
「寂しい人……」
バーはそういうところでいいんだよ! というか、その、僕が君以外の女の子と連れだって食事なんてそんなこと……ってどうしたの?
見ると、彼女は口元を手で覆って肩を震わせている。
どう見ても笑いをこらえてますの姿勢だ。
えー、なんか変なこと言ったー?
「……べ、別に何も言ってないよ。でも、なんか必死になって取り繕ってるクソ童貞みたいな○○がおかしくて……」
言い方。っていうかクソ童貞ってどっから覚えてきたんだこの子は。
「はー、もうこんな静かなお店で笑わせないでちょうだい」
そんなつもりなかったのになぜか怒られてしまった。
ぐいっとシャンディガフを一気に飲み干し、代わりのお酒を注文する。
「何頼んだの?」
内緒。
「なにそれ」
まぁまぁ、来てのお楽しみってことで。
と言っている間にもうお酒が運ばれてきた。
カクテルグラスに映えるは薄緑の綺麗な色合い、小さなミントがアクセントがわりに添えられていてとても可愛らしい。
「うわっ、○○に似合わない可愛いお酒が出てきた」
このくらいでいいんだよ、このくらいで。
実際似合ってないのは自覚あるし。
「チョコミントアイスみたいな色してるわね」
言い得て妙だが、実は正解ど真ん中だった。
「へぇー、グラスホッパーっていうんだ。なんだか無を感じそうな名前ね」
飲んだ後って甘いものが欲しくなるでしょ? そういうときにはこれが最適。
「○○チョコミントアイス好きだもんね」
家にはローソンのチョコミントアイスを常備してあるくらいに好き。
「ごめん最後の一本私食べちゃった」
嘘!?
「うん、嘘。でもあと一本なのはほんと」
じゃあ今度また大量に買ってこないとね。
「○○、絶対近所のローソンで『チョコミント』って呼ばれてるよ」
それなら本望だ。
「さいですか」
少し飲ませたら思いの外気に入ったらしく、彼女もグラスホッパーを注文した。
チョコミントアイスの話から最近ハマっている琴派姉妹実況の話に思いの外花が咲いてしまい、結局それから2回も追加注文してしまった。
少し飲み直す程度のはずだったのに、酒飲みって怖い。
「すっかり遅くまで飲んじゃったね」
店を出て歩きながら明日も仕事だっていうのに、気づけばそろそろ日付が変わろうとしている。
これから帰ってお風呂に入って……4時間くらい眠れればいい方だと、僕は静かに覚悟を決めた。
なんだかんだ楽しかったね。たまには外食もいいもんだ。
僕が言うと、少し間があって、それから彼女が長く息を吐いた。
「よかったー。○○、なんか最近元気なかったから」
えっ、そう見えた?
「気付いてないかもしれないけど、結構お疲れモードだよ? ごはんのあとこたつで寝ちゃってたり、猫のお水換えに台所行ったと思ったらコップに牛乳注いで戻ってきたり。そういうの最近多かったから」
でも、そんなのいつものことじゃ……
「いつもはこたつでウトウトしててもちゃんと自分で起きて着替えてベッドに入るでしょ。でもここのところは私が起こしてようやくって感じだし、猫のお水だってあのあと台所に置きっぱなしになってるの私が持ってきたし」
あー、そう言われてみればそんな気もする。
「あんまり○○は外の話しないから私も聞かないけど、大変な時は大変って言っていいのよ? そりゃあ……私に話してもどうしようもないことなのはわかってるけど」
いつも感情表現が乏しくて、それでも気丈な彼女にしては少し寂しそうな、どこか拗ねているような声色で彼女は言った。
彼女が先を歩いているのでその表情まではわからないから、これはあくまで僕の想像に過ぎないのかもしれない。
ごめんね、心配かけて。
「そういう時は謝罪じゃなくて感謝の言葉がほしいなー」
いつもならこんなこと絶対言わないのに。
これは相当酔っぱらいさんだな?
まぁ僕も同じくらい酔っぱらいさんだから口には出さないけど。
代わりに僕は少し前を歩く彼女に追いつくと、頭にぽんと手を置いた。
僕より頭一つ小さくて、いつもゆったりとした大きな服を着て大きな帽子をかぶっているものだから余計に小さく見える彼女。
僕は、彼女だけにしか聞こえないくらい小さな声でありがとう、と言った。
なんだか気恥ずかしくて上手く言えなかったけど、それはお酒のせいにしてしまおう。
そう思っていたのに、
「噛んだから今のはノーカウント。あとでちゃんと言い直してよ?」
振り返った彼女がいたずらっぽく笑ってみせた。
きっと僕にしかわからない程度の、小さな表情の変化。
その笑顔は、あの時と同じくらい眩しくて、あの時と同じくらい心臓が高鳴った。
あの時からたくさんの時間が流れても、まだこうして彼女の立ち姿に恋をしてしまう。
そんな自分がちょっと馬鹿らしくて、ちょっと誇らしかった。
「何ぼーっとしてるの?」
彼女の声ではっと我に返ると、目の前に彼女の顔があって。
背伸びをした彼女の唇が、そっと僕に触れた。
ほんの少し、チョコミントアイスの味がした。