そういえばアニメやるんでしたっけ
推しは間食。必須栄養素じゃない
突然ですが、筆者は基本的に「推し」というものがありません。そもそも「推し」なるものの定義がわからないというのもありますが、世間一般というかヲタク一般であるところの「推し」というものが、筆者にはまるでわからないのです。
「今日も推しの活動を見て生かされている」
「辛いことがあったけど、推しのおかげで今日も生きていける」
こういった言葉それ自体を否定するつもりではありませんし、理解できないわけではありません。ただ、共感はできない。そういうお話です。よく使いますが、解釈違いなのです。
根本的に解釈の不一致を生んでいるところがあるとしたら、人はどうやって生きて行くのかという人生観に行き着くのだと思います。筆者は、それはもう人間という生き物は究極的に最終的には1人で生きていくしかない生き物なのだという考えです。それを言うと「そんなこと言っても、人はいつでも誰かと支え合って、共生している生物だ」という批判が飛んできそうですが、言いたいのはそういう物質的、物理的なことではなく、もっと精神的なこと。思考に基づく決定や価値観を指して「1人で生きて行くしかない」と述べているのです。
どこまで行っても、それがたとえ家族や恋人であっても考えや価値観が完全に一致する人間なんてものは存在しません。目の前の出来事に対する正解や不正解、どちらの道に進むかあるいは立ち止まるか戻るか、人生における無限の選択を最終的に決定するのは自分自身以外の何者でもないのです。あなたの推しではないのです。
「推し」の考えや言葉ってあくまでも「考える始点」であって、自分はこうだな、ここは分かるけどここは違うかもって自分の中で考えを掘り下げるのが理想的だと思うんだけど、あまりにも「推しの言うことは正義(そんなことを言ってる推しを推せる)」に世の流れが傾きすぎていないかと思う
— ごるじたい (@saibou_111) 2023年4月3日
すごく意地悪な見方をすると「素晴らしいことを言ってる推しを、推している自分を承認できる」(こういうニュアンスのことが『k-popはなぜ世界を熱くするのか』にあった)ってのもあるんだろうけど
— ごるじたい (@saibou_111) 2023年4月3日
ラジオマンのエッセイかインタビュー記事で「パーソナリティーのトークが自分自身との会話の一端となってほしい」って旨の一文があって、そうだよな「推しの言葉」って全肯定して丸呑みするんじゃなくて、(自分の中で)対話して咀嚼する方が健康的なんじゃないかと思う
— ごるじたい (@saibou_111) 2023年4月3日
お昼ごはんに何を食べるのか。
新しいスマホがほしいと思った時に、どの機種を買うのか。
その選択を全て推しに委ねて、あるいは推しをなぞるだけの機械に成り下がっていませんか。あなたが食べているものは、あなたが使っているデバイスは、本当にあなたが望んだもの? それとも推しの思想を盲目的にトレースしているもの?
推しに対する気持ちがどういうものなのかわかりませんが、それが盲目的な、あるいは盲信的なものだとしたら、それはもう推し推されるの関係ではありません。教祖と信者の関係性といってしまってもいいでしょう。
「泣いた」(泣いてない)
「草生える」(真顔)
のような、ヲタク特有の大げさな表現でもって「推しが居ないと生けていけない」「推しが生きる糧」と言っているなら別にいいと思うのですが、度を越した推しへの愛情は、最終的にその身を滅ぼすことにもなりかねないんじゃないかなあと、最近思うのでした。
本当に困った時、選択をしてくれないし答えをくれるわけでもない。なんとなく、この「推し」という言葉に依存しがちな雰囲気にどこか胃がもたれる思いです。
強いて挙げるならば、究極の「自分推し」
という、ぼっちでコミュ障でこのまま孤独死コースまっしぐらなキモオタの戯言。
いやでも本当に世の中の「推し」という感覚がよくわからないんですよね。今日の記事が①とある通り明日の②にも繋がる話なんですが、基本的に筆者は全人類平等に接しているつもりです。厳密には、筆者と膝を突き合わせるくらいにまで係わることになるであろう人間に1番2番をつけることはしなかったし、今後もしていかないつもりでいます。
その根底にあるのはなんだろうって考えた時に、それって究極の利己的思考と他者よりも何倍にも膨れ上がった自己愛なんだろうなと思いました。
極論を言ってしまえば、自分が世界で1番なんですよ。自分の1番の推しは自分であって、他人じゃない。自分のためにすべてを捧げて生きていたいし、自分の考えや価値観が世界で1番自分の正解だと思って生きてきているので、自分以外の他人は全部推しになり得ないんですよね。
人間として真っ当からは大きく外れているという自覚はあるし、他人に好かれる人間であるとも思ってないしそうあろうとも思ってませんが、そういう自分が他の誰よりも1番好きなんですよ。
他人から何を言われようと、どう思われようと、自分には自分という最高の推しがいて、推しも自分のことを全部わかってくれている。LITさんはあんまり他人に対して怒ったりしないよねって言われるその理由の一端は、まちがいなくここにあるんだろうなと最近客観的に思ってます。
どんなに他人に嫌われようとも、疎まれようとも、爪弾きにされようとも、自分という究極の推しは最後まで自分を理解してくれるし、生かしてくれる。こういう人間だから、世の中の推し活に勤しんでる人を見ると純粋に「すごいなあ」と思うのと同時に、推しに依存しきってるような人を見ると、勝手に心配になったりもするんですよね。
いや、さすがにそれは嘘。心配はしない。むしろそういう人間が勝手に病んで勝手にぶっ壊れていく様子は今まで腐るほど見てきたのでキャッキャしながら傍観するタイプです。