忘れるな
これはただの例え話
先日、Twitterにこんな投稿をした。
午後も一生懸命仕事しよ。世界の眼鏡美少女のために
— LIT/litoruman (@hibihibi6969) 2023年10月5日
どこから見ても平常運転なのだが、こういうことを呟くと誤解されることが稀によくある。彼等はこう言う。
「LITさんってば、また眼鏡美少女に色目を使って」
そんな事は決してないし、あるはずもない。だから、続けてこんな投稿を残している。
っていう話をする度に誤解を与えかねないので一応言っておくと、眼鏡美少女/眼鏡美人っていうのは俺にとって愛でるべき対象であって、それ以上でもそれ以下でもない。動物園のパンダにガチ恋する人間がいないのと同じで、眼鏡美少女とはつまり、そういうものなのだ。ライオンの餌やり体験なのである
— LIT/litoruman (@hibihibi6969) 2023年10月5日
眼鏡美人は、どこまで行っても眼鏡美人でしかない。眼鏡美人という“キャラクター”が“ヘキ”に刺さるあるいは古き良きオタクの言葉を用いれば“萌え”を感じることはあるが、いや、あるが故に眼鏡美人は愛でる対象から昇華することは決してない。言ってしまえば彼女等は眼鏡美人というタグの付いた檻に閉じ込められた愛玩動物と同義なのだ。
檻の向こうのライオンを可愛いと思うその気持ちの正体は、恋愛ではなく突き詰めれば己のヘキもしくは萌えから沸き起こるものだ。ライオンやパンダに恋愛感情を抱く人間が居ないとは言い切れないが、それはおおよそ変態として分けてもいいだろう。筆者にとっての眼鏡美少女とはそれと同じであり、それ故筆者が眼鏡美少女に恋することなど、決してありえないことなのである。
好みのタイプは眼鏡を掛けていない女の子です
と、言う例え話が我ながら完璧だと思っていた。けれど現実はそう甘くはなく、この話を馴染みの店で若い子に話したら「いや、全然わかんねぇッス」と鼻で笑われた。そんなんだからお前は今年もクリスマスをバイト先で過ごすことになるんだよ、と暴言を吐きそうになったが、そのまんまブーメランなのでやめておいてよかった。
良い例え話だと思っていただけに残念である。しかし、冷静に考えれば当然の帰結とも言える。今の話にはロジックがない。三段論法的な詭弁と唾棄されても仕方がないのだ。まぁそうやってそれっぽい話を堂々と相手の目を見て真っ直ぐ言うってのが詐欺師として適性なんだろうけれど、それはそれとして。
もっとわかりやすく分解しよう。すなわち、萌えと恋は別物であると。
萌えを、「相手の容姿や身体的あるいは服装的もしくは装飾的特徴に対して、一定多数の人間が共通して心を揺り動かされ、それに対し夢中になること」と定義付けよう。眼鏡美少女は可愛い。細かな解釈の違いはあれど、眼鏡美少女が好きだと言う人間は共通して「眼鏡を掛けた美少女」が好きなのだ。ここで美少女の定義は省くが、大事なのは「眼鏡を掛けた」に掛かっていることだと理解してほしい。兎にも角にも、定義に当てはめるのなら筆者を含む世の中のメガネスト達は共通して「眼鏡を掛けた美少女そのものあるいは彼女等の仕草」に「心を揺り動か」され、「夢中になる」のである。それは特定個人ではなく、乱暴な言い方をすれば誰だっていいのだ。「眼鏡美少女に貴賎なし」とはつまり、そういうことなのである。
何度も使い倒してる自作コラです
一方、恋の対象は特定個人であり、心を揺り動かされる要素に汎用性はない。勿論身体的あるいは服装的もしくは装飾的特徴に恋をする人いるだろう。ただ、そこを恋の起点もしくは中心点として捉えることが一定多数の人間の間で共有できるかと言うと、それは無理と言える。恋とはよりパーソナルで細分化されていて、あるいは言語化すら困難な、究極は萌えやらフェティシズムを取っ払ってもなお目が離せない、相手の人格や価値観に対して抱くものなのである。
この整理をしたあとに元の命題に戻ると、眼鏡美少女に向ける気持ちは「眼鏡を掛けた美少女」という「装飾的特徴」に対して筆者を含む「一定多数の人間が共通して心を揺り動かされる」ものであり、つまりは萌えの発露でしかないのだ。故に、筆者が眼鏡美少女に恋することは、少なくとも眼鏡美少女であるという一点のみで恋に発展することは、無いと断言できる。裏を返せば、認識におけるレンズを通さない分だけ、眼鏡という属性がない方が恋愛対象としてスマートとも言えるのだ。
もちろん、眼鏡は掛けているに越したことはないが。うっせぇな人間欲張りなんだよカレーとトンカツどっちかえらぶよりカツカレーのほうが美味いに決まってんだろ。だからみんな眼鏡かけろ。コンタクトは滅べ。レーシックは法規制されろ。