ゆたんぽを抱いて寝る。

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猫のこと、本のこと、アニメのこと、野球のことetc...思いついたまま、気の向くままに。

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【コラム】コミュ障だから定期的に自殺を繰り返している話

死んだらどーする、は名言

 

最初に言っておくと全然これっぽっちもセンシティブな話じゃなくて、ゴルフボールを靴下に入れて客の車をぶん殴ってたくらい些細な話です。大事になったら面倒くさいって話ではあるのかもしれませんが。嘘です。W不倫がバレたくらいのセンシティブ加減です。

進学や就職など、環境が変化するタイミングで筆者は毎回人間関係を全てリセットしています。携帯の連絡帳を一度まっさらにして、メールアドレスを一方的に変更することで完全に相手の連絡先から消失すると同時にこちらからの連絡手段も一方的に断つというのをずっとやってきました。

そして、新しい環境で新しい人間関係を築いて、また一方的にぶっ壊していく。筆者はこれを緩慢な自殺と呼んでいて、ある時からある時まで存在した自分を完膚無きまでに痕跡そのものを消してしまうことで、他者の記憶からも完全に無かった存在になりたいという願望を満たす行為に他なりません。死んだら葬式も挙げてほしくないし墓にも入りたくないということをずっと言ってるのは究極、墓になんて入れられた日にはそこに概念として筆者が生き続ける、少なくとも墓に参る人間が生きている間はずっと生かされ続けることに他ならないわけで、それをやられるくらいなら骨は燃えないゴミとして出してもらうかそれが無理なら海にでも撒いて欲しいわけです。

話を戻すと、人間関係は煩わしいですが人生そのものを放棄するほどの窮地には立たされていません。だって首を括るのも高いところから飛び降りるのも絶対苦しいし痛いもん。日本で安楽死――こと積極的安楽死よりも更に上の選択的安楽死とでも言いましょうか、コンビニにお菓子を買いに行くくらいの感覚で安楽死出来る日が来たら間違いなく飛びつくとは思うのですが、如何せん筆者が生きているうちにそれが叶う様子はありません。となると現世からおさらばするのは難しい。ならばせめて、人間関係を更地にするというのを定期的にやっていくしかないというのが今のところの結論です。

だから学生時代の友人知人とは本当に極々一部を除いて一切関わりを持っていないし、親兄弟とも緩やかに疎遠になる努力をちょっとずつしてます。実家に帰らないというのもそのひとつなんでしょう。帰ってもやることないというのも本音ではあるのですが、理想は孤独死問題でテレビやネットでよく見る「もう何十年も会ってない兄弟もしくは親子」になるということです。

Twitterも今のアカウントは2代目なんですが、初代もある日突然色々めんどくさくなって唐突に爆破しました。厳密にはあの時の自分がイキって珍しく意識高い系だったのが仇になって雁字搦めになったから逃亡したというのが正しいんですが、あれを反省して今はちゃんと他者と距離をおいてます。その当代アカウントも、果たしていつまで保つのやら。個人的にはこれがTwitterもしくはインターネット上に長らく存在していたLITさんあるいはlitorumanさんという人格の最後の1回だと思っていて、顔の見えない下手をしたら存在するかどうかすらあやふやなインターネットの中だけの人格に顔と肉体をひっつけてしまったことが最大の過ちです。あるいは、litorumanさんという人格を棄て切れなかったままズルズル来てしまっただけにとどまらず、そこに別の◯◯さんを紐付けてしまった結果、やっぱりクソ面倒くさいことになってるんだろうなと反省しています。ある日筆者のTwitterが消えていて、最近顔みないけどどうしてるんだろうなと思い始めたら、そういうものだと思ってください。

最終的には馴染みの飲み屋くらいにしか現れなくなる気がします。飲み屋の客同士もしくは客と店員の関係くらいが一番ちょうどいい。インターネット掲示板の関係性に一番近い気がするんですよね。素性も仕事も年齢も性別も知らないし知ろうとも思わないし、ただそこに偶然居合わせた人とその日だけの関係を築いて終わる。己の人物名鑑に一切新しいページが増えないこの人間関係こそが、理想なんだと思います。

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